偉人に学べ!英語にまつわる都市伝説


URBAN LEGENDS

空前絶後の日本人魂を英語で見せつけた
日本一カッコイイ男

出典元:白州次郎 | 歴史人物講座 偉人の肖像旧白洲邸 武相荘

あなたは「白洲次郎」という日本人を知っていますか?
こんな人物が今の時代にも実在したなら、今後の日本にも期待できるかもしれない。

生い立ち「芦屋のボンボン」

1902年(明治35年)兵庫県芦屋市生まれ、旧制第一神戸中学校(現在の兵庫県立神戸高等学校)時代からアメリカ車ペイジ・オートモビル(Paige Automobile )のグレンブルック(Glenbrook )を父親から買い与えられて乗り回していた。

イギリス留学「愛車はベントレー」

1919年(大正8年)神戸一中を卒業し、ケンブリッジ大学クレアカレッジに聴講生として留学、自動車に耽溺し、ブガッティ・タイプ35やベントレー・3リットルを乗り回していた。スーツはロンドンの「ヘンリープール」、シャツは「ターンブル&アッサー」のオーダーメイド、ロック帽子店のソフト帽を小粋にかぶり、雨の日は“傘のロールスロイス”と言われる「ブリッグ」の絹の傘を愛用。7代目ストラフォード伯爵と終生の友となり、1925年冬ベントレーを駆ってジブラルタルまでのヨーロッパ大陸旅行を実行している。帰国後にはイタリア製スポーツカー「ランチア・ラムダ」で京都から東京までハネムーン・ツーリングを行っている。

帰国「吉田茂のブレーンメンバー」

1928年(昭和3年)、神戸市神戸区(のちの中央区)で父の経営していた白洲商店が昭和金融恐慌の煽りを受け倒産したため、留学を止め日本へ帰国。1929年(昭和4年)、英字新聞の『ジャパン・アドバタイザー』に就職し記者となった。その後セール・フレイザー商会に勤務、1937年(昭和12年)日本食糧工業(後の日本水産)取締役。この間、商談などで海外に赴くことが多く駐イギリス特命全権大使であった吉田茂の面識を得、イギリス大使館をみずからの定宿とするまでになった。

戦後「日本人のプライド3連発」

1945年9月29日、新聞の一面に、天皇陛下とマッカーサー司令官の二人が並んだ記念写真が掲載された。正装の天皇に対し、マッカーサーはノーネクタイの略装だった。この写真は日本国民に衝撃を与えた。政府は直ちに新聞を発禁にしたが、GHQは発禁を解除した。国民のだれもが敗戦を痛感した。そして、支配者が誰であるのかも思い知らされた。日本人は自信を失い、GHQの顔色を見て右往左往した。そのような時、白州次郎は吉田茂外務大臣の要請で終戦連絡事務局参与となり、GHQとの交渉にあたった。

①英語のプライド

民政局長のコートニー・ホイットニー准将に英語が上手いと褒められた白洲次郎は、"If you study a little harder, you will improve your English."(あなたももう少し勉強すれば英語が上手くなる)と自分の正統英語の能力を使用して、アメリカ英語の准将に返した。ホイットニー准将は、アイビーリーグではないジョージワシントン大学出身であり、白洲次郎の「もう少し勉強」と言う言葉は「あなたも、もう少し勉強すればオックスブリッジに入学できて、そのような失礼なことを発言しなくなる」との皮肉が入っていたとされる。

②日本人のプライド

1945年12月のクリスマス。次郎はマッカーサー司令長官に天皇陛下からのプレゼントを届けた。部屋のテーブルの上はプレゼントでいっぱいだった。マッカーサーは床のどこかに置いていけというという仕草をした。すると次郎は「いやしくも天皇陛下の贈り物である。床などにおけない」と怒りを爆発させた。驚いたマッカーサーは、急いで新しい机を運ばせた。

③言葉のプライド「英語ではなく、日本語で話すことも重要」

1951年9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行したが、この時の受諾演説の原稿を外務省の役人がGHQの了解を得た上で、GHQに対する美辞麗句を並べかつ英語で書いたことに次郎が激怒、「講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の原稿を、相手方と相談した上に、相手側の言葉で書く馬鹿がどこにいるか!」と一喝、急遽日本語に書き直した。原稿は随行員が手分けして和紙に毛筆で書いたものを繋ぎ合わせた長さ30m、直径10cmにも及ぶ巻物となり、その様子を海外メディアは“吉田のトイレットペーパー”と報じた。

70歳からの愛車は「ポルシェ911S」

吉田側近であったころからすでに公社民営化を推進しており、1951年(昭和26年)東北電力会長に就任。東北電力退任後は荒川水力電気会長、大沢商会会長、大洋漁業(現マルハニチロ)、日本テレビ、ウォーバーグ証券(現UBS)の役員や顧問を歴任。晩年は、軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長を務めゴルフに興じたほか、80歳まで1968年型ポルシェ911Sを乗り回し、三宅一生のショーにモデルとして出演もした。1985年11月28日死去。